2012年4月14日土曜日

オリオンをなぞる老婆

休日のいいところは昼間から酒が飲めることであろう。特に、昨日年に一度の健康診断が終わり(一キロ減っていたにもかかわらず「いい加減痩せろ死にたいのかテメエ」と医師に激昂された)、私を縛り付ける枷はどこにもない。まさに今の私は天空を支配するエンジェル。中華街で麻婆豆腐やら北京ダックやらを貪りながら、私は泥酔という名の大空を華麗に飛翔し続けた。


そして深夜。何リットルかも分からぬほどアルコールを摂取し続けた私は強かに酔い、最寄り駅から家までの道すがら、後悔の念に苛まれていた。一体、何がどうしてあんなバカみたいに飲み続けてしまったのか。まっすぐ歩くことすらままならない。誰かお願い、十時間前の私を射殺して……そんな思いを抱きながらふらふら歩いていると、前方から、私以上にふらふら歩いている老婆がやってきた。危険な香りがする。自慢ではないが、こういう『前方からやってきた不審者』に声をかけられる確率が、私は常人に比べてはるかに高い。治安の悪い場所に行けば黒人数名に囲まれてよくわからない服屋に拉致されるし、虚ろな目をした老人には「タクシー乗りたいから千円貸せ」と絡まれる。白人女性に「アナタ、シアワセモノネ!」などと言われて二千円で様子のおかしいビーズの腕輪を買わされたこともあった。今までの経験から言えば、あの老婆もほぼ間違いなく私に声をかけてくるだろう。それだけは避けねばならない……よし、ここは心を鬼にして、老婆の横を華麗にスルーして


「ちょっとおにいさああん!!」


その刹那、老婆は一体どこに隠し持っていたのか分からぬほどの脚力で私の目の前に跳び出してきた。え、ちょ、何なのこの老婆……私が驚愕のあまり口をパクパクさせていると、老婆は「私、タァクスィー拾いたいんですけんど、大通りに出るには、ハァ、どうしたらええんですかねぇー!」と絶叫し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。やられた。この手管、確実にプロの犯行だ。その邪悪な笑顔から「甘いんだよ若造が!」というメッセージがひしひしと伝わってくる。もはや私は捕らえられた籠の中のひばり。自由を嘯くこともできない矮小な存在だ。とにかく、自分自身も泥酔状態の今、この老婆に関わり続けるのは非常にまずい。私の中のシグナルが鳴り響く。何とかしてこの老婆から離れなければ……私は「そこの道まっすぐ行って、突き当たったら左に曲がれば大通りだから!タクシー停まるから!じゃ!」と颯爽とその場から逃げようとした。


「ああああああ!!」


老婆、まさかの私の目の前で転倒。それも手を前に出すことなくそのままうつぶせの状態で倒れ付したため、顎を強打したらしく、老婆は「いたいーいたいー!!」とエキセントリックに絶叫し始めたではないか。いよいよまずいことになってきた。この住宅街の中で老婆の叫び声を聴いて外に出てきた住民は、一体どんな感想を抱くであろうか。おそらく「小汚いデブ男が金欲しさに老婆を襲撃してる……!」と思われるのは想像に難くない。目の前が真っ暗になるような思いがした。こんな、ちょっと酔っ払って天使を気取っただけで、未来を奪われるほどの罰を受けねばならないのか。それほど私は世界にひどいことをして生きてきたというのか……涙で視界が滲む。しかもその間にも老婆は「痛いいいい!助けてー!」などと叫び続けている。心底うんざりしたが、もうこうなったら老婆を介抱し、とっととタクシーに乗っけてしまうのが一番良かろう。私は老婆に手を差し伸べた。


ほら、ばあちゃん。俺の手に掴まんな。起き上がれる?
「ギャー痛いー!助けてー!」
ちょ、ばあちゃん、力つよっ!お、おちついて、そんなしがみつくな!!
「痛いよー痛いよー!!!」
おいっ!離せっ!!いったいどっからそんな力……うわっ、ちょ、もたれかかんないで
『あああああああ!!』


ゴーンという後頭部の衝撃と、目の前に飛び散る星。老婆に無理やりな体勢でしがみつかれた私は、その剣幕に押されてそのまま仰向けの状態で転倒。脳天を強かに打ちつけた。後頭部に走る激痛。横で倒れ付しながら尚も叫び続ける老婆。雨に濡れた地面。いろんな要因で滲む視界の向こうに見えた夜空をぼんやりと眺めながら、地上に落とされた堕天使も、こんな気持ちで空を見上げたのかしら……と思った。

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