2012年4月17日火曜日

職場でフルート吹いていいって法はないだろう!

職場の地下にある駐車場で、毎日定時を過ぎると、フルートの練習をする老人が現れる。どの部署の人間なのか、役職は何なのか、それともまったくの部外者であるのか……一切正体の掴めぬ彼は、今日もどこからともなくやってきては、譜面台を組み立て、フルートを横に構えるのであった。


しかし、私は彼が何の曲を練習しているのかを知らない。なぜなら彼は、人の気配を敏感に察知してフルートを下ろし、「ああもう早くどっか行ってくれねえかな……」と言いたげな冷たい視線のみをこちらに送ってくるのだ。音のひとつも我々には与えてくれない。楽器というのは、演者本人が楽しむ以前に、聴衆を楽しませるためのものではないのか。そもそもここはパブリックな場所。老人のパーソナルスペースに侵入して睨まれるのなら納得もするが、そうでもないのにそんな視線を毎日送られては、こちらだって怒りのひとつも覚えるというものだ。


そこで、私のいたずら心に火がついた。そうだ。ここで鍵を出すのに手間取ったりメールが来ちゃって返信を始めちゃった風を装って、老人が痺れを切らして演奏を始めるまで居座ってみてはどうだろう。彼が何を演奏しているのか興味もあるし、何より毎回あんな目をされてはこちらだって不快。老人よ、この世のすべてが貴様の思い通りになると思うな。今日はあきらめて、私の前でその腕前を披露するが良い……そして無駄にカバンを漁ったり携帯電話をいじってみたりすること五分。老人は、あきらめたようにフルートを構え、大きく息を吸った。


ドレミ♭ファミ♭レミ♭ド ソ↓ソ♪ ソ↓ラ♭ ミ♭ レド ソ↓♪


澄んだ音色で彼が演奏を始めたのは、まさかの『渡る世間は鬼ばかりのテーマ』。それは、単に音楽会での演目のひとつだったのか、元気のない妻を元気付けるために人知れず練習していたのか、それとも自分に対して意地悪をする太った男(私)に対する無言の抗議だったのか――様々な疑問が浮かんでは消える中、彼の奏でるそのマイナー調の曲は、いつまでも高らかに駐車場内に響き渡っていた。

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